日本におけるブータン研究の発展・普及を目指して
Japan Society for Bhutan Studies: JSBS
第3回大会
2019年5月19日(日)、早稲田大学にて、日本ブータン学会第3回大会を開催いたしました。
概要
1. 大会日程
2019年5月19日(日) 10:00~17:00
2. 大会会場
早稲田大学(早稲田キャンパス) 3号館305教室
〒169-8050 東京都新宿区西早稲田1-6-1
3. 大会プログラム
※共同研究の場合は、発表者に〇印を付しています。
10:00~10:15 開会挨拶
10:15~10:45 発表①
「ブータンにおける炭素中立シナリオの定量的検討」
〇五味 馨(国立環境研究所)
越智 雄輝(株式会社イー・コンザル)
石川 智子(地球環境戦略研究機関)
Tshewang Dorji(National Environment Commission, Bhutan)
西岡 秀三(地球環境戦略研究機関)
10:45~11:15 発表②
「現代ブータンにおける国民形成についての一考察
―国王の地方行幸に着目して―」
石内 良季(京都大学大学院)
11:15~11:45 発表③
「ブータン王国のラックカイガラムシを題材とした高等学校家庭科の授業実践
―ラック染色布、染色動画と演示実験を教材として―」
〇都甲 由紀子(大分大学)
〇陶山 由佳(島根県立松江工業高等学校)
11:45~13:00 休憩
13:00~13:30 発表④
「ゾンカ語とシッキム語の言語的距離について」
西田 文信(東北大学)
13:30~14:00 発表⑤
「ゴ氏のティサンヤプラ ―史料再検討と地理情報学的解析―」
高橋 洋(日本ブータン研究所)
14:00~14:15 休憩
14:15~14:45 発表⑥
「ブータンにおける歌の文化 ―ツァンモとその周辺―」
〇伊野 義博(新潟大学)
〇黒田 清子(金城学院大学)
〇権藤 敦子(広島大学)
14:45~15:15 発表⑦
「ブータン関連史資料の収集調査
―19~20世紀前半にブータンを訪問したイギリス人が残した書簡・報告書を中心に―」
平山 雄大(早稲田大学)
15:45~16:45 総会
4. 大会参加者
58名
5. 懇親会
欧州料理キッチン「Bistro Atton」 17:30~
〒169-0051 東京都新宿区西早稲田1-22-2
参加者 30名
発表要旨
【発表要旨①】「ブータンにおける炭素中立シナリオの定量的検討」○五味 馨(国立環境研究所)、越智 雄輝(株式会社イー・コンザル)、石川 智子(地球環境戦略研究機関)、Tshewang Dorji(National Environment Commission, Bhutan)、西岡 秀三(地球環境戦略研究機関)
ブータンは豊富な森林と水力発電によって、森林による二酸化炭素の吸収量が温室効果ガス排出量を上回る「炭素中立」となっている。ブータン政府は将来にわたって炭素中立であることを目標に掲げているが、人口増加と経済成長による化石燃料消費の増加と開発による森林からの土地利用転換により、その永続性が危ぶまれている。一方で、先進国では従来型のインフラや社会制度が脱炭素社会への転換の障壁となっているが、ブータンではまだインフラや社会制度が十分に整備されていないため、従来型の多排出型発展の道筋を取らずに、脱炭素かつ豊かな社会への非連続な転換が可能かもしれない。本研究では、ブータンを対象として非連続型発展と炭素中立の可能性を検討する。
まず、国立環境研究所や京都大学からなるアジア太平洋統合評価モデル(AIM)プロジェクトチームにより開発された気候変動対策の定量分析モデルExSS(Extended Snapshot Tool)を用いて、ブータンの将来における社会経済の発展と温室効果ガス排出量の変化を推計し、ブータンの炭素中立の維持の実現可能性を検討した。検討にあたり、BaU(Business as Usual)シナリオと炭素中立(CN)シナリオの2種類のシナリオを設定した。BaUシナリオでは、人口の増加や経済の成長を想定するが、エネルギー需要側の機器のエネルギー効率、交通手段の分担率、土地利用について、現状から変化しないと仮定している。森林による炭素吸収も現状のまま推移すると仮定した。一方、CNシナリオでは人口・経済についてはBaUシナリオと同じ仮定を置きながら、気候変動対策の実施によりエネルギー効率の改善、公共交通の利用、電化製品の普及、森林の管理面積の増加が進むと想定した。
分析の結果、BaUシナリオでは、2050年に温室効果ガスの排出量が吸収量を上回り、正の排出に転じることが示された。輸送需要の増加などにより石油の消費量が大幅に増加することが排出量の増加の主な原因である。それに対しCNシナリオでは温室効果ガスの排出は現状から増加するものの、低炭素対策による排出の抑制と吸収量の増加により、2050年まで正味で負の排出を維持することが可能となる。
次に、気候変動対策がGNHに与える影響を分析した。GNHでは、「心理的な幸福」、「健康」、「時間の使い方・バランス」などの9つのドメインが設定されている。ExSSの扱う指標とGNHの9つのドメインとの対応関係を整理し、気候変動対策によるGNHに関連する指標の変化を分析できるようにモデルを加工した。具体的には労働時間、就業率、食糧自給率、暖房・調理における電化率などをGNHに寄与する関連指標として設定した。例えば、2014年時点でブータンの電化率は97%まで改善しているものの、暖房や調理には薪を用いる家庭がまだ多く、屋内で薪を燃やすことによる健康影響の恐れがある。それゆえ暖房や調理に使う熱も電気で賄うことで健康の促進、ひいてはGNHの向上につながると考えられる。
モデルによる分析の結果、CNシナリオでは、将来的にワークシェアリング等により平均労働時間が短くなるとともに就業率が上昇する。また、暖房や調理における電気の利用が進むことにより、薪の燃焼に起因する健康影響が緩和される。そして電気の供給源として太陽光や風力、バイオマスといった分散型の再生可能エネルギーが拡大することで、地域レベルでのエネルギーの地産地消が進む。一方、農業においては有機栽培への転換により、収率が低下し生産量が減少する。それに伴い食糧自給率は低下することとなる。
ブータンが炭素中立を維持しながら発展していくためには、気候変動対策の導入が不可欠といえる。ただし、対策によってGNH関連指標が改善する分野が多い反面、食糧自給率など一部の分野においては気候変動対策とGNHの間にオフセットの関係がみられた。ブータンが国民の幸福を追求しつつ炭素中立の維持を図るためには、相互に及ぼす影響に注意し施策を検討していくことが求められる。
【発表要旨②】「現代ブータンにおける国民形成についての一考察 ―国王の地方行幸に着目して―」石内 良季(京都大学大学院)
本発表の目的は、現代ブータンにおいて国王の地方行幸がどのように国民形成へ影響を及ぼしたのかを明らかにすることである。そこで、本発表では、2006年まで国内唯一の新聞社であったKuensel社が1967年から2000年までの間に発刊した英字新聞を資料として用い、記事に記載された国王の地方行幸に関する内容の分析を行なうことで、国民形成との関連性を模索する。なお、本発表は、発表者の学士論文『現代ブータンにおける国民形成についての一考察:国王の地方行幸に着目して』に基づいている。
本発表は時期ごとに見られる行幸の特徴に従い、5つの期に分けて構成している。
第3代国王の統治末期にあたる第Ⅰ期(1967-1972)は、以降の期に比べれば行幸自体に国民形成との関係は見られなかった。しかし、国内のインフラや教育機関が整備され、建国以来初の建国記念式典が開催されたことは、第Ⅱ期以降の行幸に大きく影響を及ぼした。したがって、第Ⅰ期は「行幸による国民形成の前史」として位置づけられる。
第3代国王の急死を受け、即位した第4代国王の統治初期にあたる第Ⅱ期(1973-1980)は、第Ⅰ期に進められたインフラ整備によって、広範囲の地域への行幸が容易になったといえる。新国王の即位を知らせるため、全国を行幸し、建国記念式典も積極的に開催した国王は、人々に直接話しかけたり、スピーチを通して話すことで、「身近な国王」という像を創り上げた。第Ⅱ期の行幸は、行幸先で集まった人々を「この国王の下にある人々」という国民意識を形成していくために必要であったといえよう。
第Ⅲ期(1981-1989)に入ると、ブータンでは地方分権化が進められ、人々の開発計画への参加が強く求められた。国王は行幸先で、国民の開発への参加と政府への協力を訴えることで、国家に協力する共同体の一員であることを人々に認識させていった。また、国王の行幸は、それまで共同体意識を持つことのなかったであろう県や郡レベルの人々に、その地域の共同体の一員であるという共同体意識を抱かせ、開発政策への参加を促進するものであった。こうして創られた共同体意識は、行幸を通し、国家という大きな共同体、つまりブータンに組み込まれていったのである。
第Ⅳ期(1990-1995)、ブータンは南部問題という大きな危機を迎える。南部で発生する反体制運動を受け、国王は行幸先で人々にツァワ・スム(「三根」すなわち国家と国王と国民)への忠誠と政府との連帯を訴える。人々にとっても行幸の場はツァワ・スムへの忠誠を表せる場として機能し、ツァワ・スムを通して、人々は国王と国家の存在を確認し、自らを国民として意識していった。また、国王は共に開発を行なうことで、平和を築き繁栄することができると主張し、国を守る共同体の一員であることを人々に認識させていった。
南部問題も落ち着きを見せてきた第Ⅴ期(1996-2000)、国王は行幸先で開発計画失敗の理由を南部問題と結びつけた。「政府と国民の連帯と協力」によって成功させてきた開発計画の失敗は、政府と協力して開発を進めていく者こそが国民であるという意識を人々の中に創り上げていった。
以上の分析から、ブータンにおける国民形成は、開発を通した国民形成であったとしている。その上で、国王の行幸は開発と深く関係し、地域レベルから国家レベルの共同体意識を創り上げ、「開発を共に進める者」が国民であることを人々に意識づけるものであったといえよう。
【発表要旨③】「ブータン王国のラックカイガラムシを題材とした高等学校家庭科の授業実践 ―ラック染色布、染色動画と演示実験を教材として―」○都甲 由紀子(大分大学)、○陶山 由佳(島根県立松江工業高等学校)
1.発表の目的
2015年12月17日、ブータン王国にはラックカイガラムシ由来の色素で染色した民族衣装を纏う人々がいることを題材として、ラックで染色された布、現地での染色中の動画や多繊交織布の染色実験を教材として、大分県内の私立高等学校で家庭科の授業を実践した。本発表は、教材開発の経緯とこの授業の内容を報告するとともに、生徒自身の生活を学習対象として主体的・対話的で深い学びを実現する家庭科の指導について検討し、考察すること目的としている。
2.発表の概要
ラックカイガラムシは、東南アジアから南アジアにかけて亜熱帯地域に生息する体長5~6mmの昆虫であり、樹木の枝に寄生し、樹脂状物質を体外に分泌して集団で巣を作る。ブータンでは主に染色に用いられているが、日本人の生活に必要で身近なものの材料としても使われている。しかし、その事実は一般的にほとんど知られていない。
現在日本の家庭科は男女共修となって25年経ち、料理裁縫の技能を身につけるだけの教科ではない。2018年に公示された高等学校学習指導要領(家庭)においては主体的・対話的で深い学びを実現し、質の高い実験などにより生活の科学的な理解を深めることや消費生活の現状と課題を捉えて消費者の権利と責任を自覚することがより一層求められている。高等学校家庭科の授業の題材としてラックカイガラムシを取り上げ、教材を開発して家庭科学習の導入に位置付けることで、食品や繊維製品等の衣食住に関わる製品の原材料や製造工程の科学的知識や表示の内容に興味関心を惹きつける教材として提案することができると考えた。
授業中に実演する染色実験教材を開発するため、あらかじめ染色実験を実施した。すりつぶしたブータン産スティックラック3 gを60℃の湯90 mlで3分間抽出し、酢酸でpH3付近として45mlずつ染液として、多繊交織布(綿、ナイロン、ジアセテート、毛、ビスコースレーヨン、アクリル、絹、ポリエステルが織り込まれた試験布)0.4gを80℃で15分染色し、アルミ媒染の有無による影響と繊維による染色性の違いを観察した。授業は、民族衣装の材料となるラック染色布、2008年に撮影したランジュンでの染色動画、染色の演示実験、ラックの色素や樹脂が食品添加物として含まれている市販の食品等を教材として実施した。授業のまとめとして、食品や衣服の材料に興味を持つよう促して消費者の権利と責任にも触れた。ブータンの染織文化を起点として、生活の社会科学と自然科学の両面を含む文理融合の教育内容となる授業を実現することができた。自由記述での授業の感想文には、生徒たちが身の回りのものの材料に対する関心の高まりと主体的に家庭科を学ぼうとする意欲が反映されていた。
本発表では、以上の教材開発と授業実践を振り返り、現代の教育課題を確認しつつカリキュラムにおける授業の位置付けや汎用性のある教材・授業として提案するための工夫を検討することで今後の研究課題を明らかにして考察する。
【参考文献】都甲由紀子, 陶山由佳: ブータン王国のラックカイガラムシを題材とした高等学校家庭科の教材開発―ラック染色布、染色動画と実験を教材とした授業実践の試み―. ブータン学研究No.2: 2019
【発表要旨④】「ゾンカ語とシッキム語の言語的距離について」西田 文信(東北大学)
本発表では、ブータンの公用語であるゾンカ語を、同じくチベット語南部方言に属し系統的に近い関係にあるとされるインドのシッキム州で話されているシッキム語(デンジョンケー、デンジョンカ、ブティヤ語、シッキム・チベット語等とも称される)を比較し、これら2言語の言語的距離(linguistic distance)を測定することを目的としている。
ゾンカ語については発表者が過去15年ほど収集してきた語彙データを用いる。シッキム語に関しては発表者が2018年11月にインドのシッキム州の州都ガントックにて収集した語彙データを用いる。
言語間の距離を測定するためには本来は音声・音韻・形態・統語等の文法のすべての側面を考慮に入れるべきであるが、その基礎的作業として本発表では先ずMorris Swadeshの基礎語彙(basic vocabulary)リストを用いて2言語間の同源語の共有率を測定した結果を考察する。同源語共有率によって言語の下位分類が可能となる。
次に、相互理解性(mutual understandability)テストで2言語の可通率のパーセンテージがどれくらいであったかを提示する。相互理解性(mutual understandability)テストは、従来提唱されたものの多くは通じるか/通じないかという恣意的な要素を多分に含むものであったが、本発表では近年William O’Gradyが済州島方言とソウル方言の相互理解性度測定を目的に開発したテストを参考に同種の測定を実施した結果を提示する。また補助的な手法として、Chiswick and Miller(2005)にみられる方法論も用いた。
また、実験音声学的研究成果も使用し、音響レベルでのゾンカ語とシッキム語の距離も考察する。
結果としては、両者ともチベット語南部方言と称してよい共通点が多くみられるものの、それぞれの言語で独自に発達したと思われる特徴も見られた。
共通点としては、以下のものが挙げられる:
・有声阻害音子音の無声(有気)化
・無声化鼻の存在、無声化鼻音>h-変化
・文語チベット語db(j)-という子音結合におけるb-の保存
・二音節語の縮約現象
本発表では目下分析中である独自に発達した特徴についても考察を加える。
【参考文献】
- Chiswick, B. R.; Miller, P. W. (2005). Linguistic Distance: A Quantitative Measure of the Distance Between English and Other Languages.Journal of Multilingual and Multicultural Development. 26: 1–11.
- Colin Renfrew; April M. S. McMahon; Robert Lawrence Trask (2000). Time depth in historical linguistics, McDonald Institute for Archaeological Research, 2000.
- Grierson, George A. (1909). Tibeto-Burman Family: General Introduction, Specimens of the Tibetan Dialects, the Himalayan Dialects, and the North Assam group. (Linguistic Survey of India, III(I).) Calcutta: Office of the Superintendent of Goverment Printing.
- Guillemot, Céleste and Seunghun J. Lee (2018). An interaction between voicing and tone in Dränjongke fricatives. The 157th Annual Meeting of the Linguistics Society of Japan. Kyoto University. November 17th, 2018.
- Guillemot, Céleste, Shigeto Kawahara, et. al. (2019). A Quantitative Analysis of a Laryngeal Contrast in Drenjongke (Bhutia) fricatives. Phonology Festa 14. Meikai University. March 4-5, 2019.
- Guillemot, Céleste, Seunghun J. Lee, Fuminobu Nishida. (2019). An acoustic and articulatory study of Drenjongke fricatives The International Congress of Phonetic Sciences (ICPhS) 2019 . Melbourne, Australia. August 5-9, 2019.
- Lee, Seunghun J., Hwang, H.K., et.al. (2018). The phonetic realization of tonal contrast in Dränjongke. Proc. TAL2018, Sixth International Symposium on Tonal Aspects of Languages, 217-221.
- 瞿靄堂 (1981).「蔵語的声調及其発展」『語言研究』1:177-194.
- Sandberg, Graham. (1888). Manual of Sikkim Bhutia language or Dénjong Ké. Calcutta: Oxford Mission Press.
- Swadesh, Morris. (1950). Salish internal relationships. International Journal of American Linguistics, 16:157-167.
- Swadesh, Morris. (1952). Lexicostatistic dating of prehistoric ethnic contacts. Proceedings American Philosophical Society, 96, 452-463.
【発表要旨⑤】「ゴ氏のティサンヤプラ ―史料再検討と地理情報学的解析―」高橋 洋(日本ブータン研究所
17世紀中頃のドゥク派政権成立以前のブータンの状況については、史実として実証的に確認できる歴史はほぼ何一つ知られていない。現在知られている仏教史料は後伝期以降のものであり伝承の域を超えない。現在のブータン王国の地理的領域(以下ロモン地域)に関係する、実在がほぼ確実と思われる最初の人物は吐蕃のティソンツェン王(※いわゆるソンツェンガンポ)で、パロ県のキチュ寺がその創建であると伝わる。しかし、実証的歴史研究においては吐蕃王国への仏教本格導入はティソンデツェン王の時代以降とされ、ティソンツェンによる護国12寺院建設自体が後代創作された可能性が高い。
現在知られている実在が確実な2番目の人物は、それから半世紀後のティソンデツェン王の時代に吐蕃の大論(※総理大臣職に相当)であったとされるゴ氏のティサンヤプラである。ティサンヤプラはティソンデツェン王時代の「1)仏教復興に大きな影響を与えた人物」として伝統的仏教史学の中でもよく知られた人物で、『ベシェ』『ケンペーガトン』でもそう語られている。また、これら伝世仏教史料では「2)吐蕃王国の行政・法制の確立について大きな役割を果たした」大臣として知られている。
ティサンヤプラは敦煌出土資料および南詔時代の石碑にその名が記載されており、また、それらの内容が一致することから8世紀中頃の吐蕃王国において政府の中心人物のひとりとして実在したことに疑いの余地がない。これら現存する同時代史料で述べられるティサンヤプラの業績は「3)吐蕃と南詔の同盟を果たした」こと、「4)最終的に長安占領に至る8世紀中頃の吐蕃の軍事攻勢に功があった」ことの2点である。一方、現地調査を行ったトゥッチ、ビターリによってチュンビ渓谷周辺(ツァン地方東部:ニャントェ地方)に「5)ティサンヤプラがその功績によって王室からロモン地方の権益を認められた」、「6)ゴ氏とギャ氏によってニャントェ、ロモンの仏教導入が進められた」という伝承が存在することが広く知られるようになった。
チベット史上全体からは重要視されないが、カギュ派史、あるいはブータン史においては、ドゥク派政権成立以前にこの地域の実権を握っていたのはラ派であり、ニョ氏(※ラナンパはマルパの入天竺求法に同行したニョ・ローツァワの子孫)が「7)権益をゴ氏から与えられた」ことをその由来とする。さらにいえば、これら伝統的な仏教史学と、それを基盤にした伝世史料を中心とした近代的歴史研究が根本史料としてきた主要な歴史書は、いずれもここで問題になっているツァン~モン境界地域、あるいはゴ氏、ギャ氏と個人的に深いつながりがある人物によってまとめられたといえる。
周知のように17世紀に国家としてのブータン(ドゥクユル)が成立した背景には、ニャントェ地方に由来をもつギャ氏による座主世襲を伝統とするカギュ派ドゥク派中派(バルドゥク派)の伝統が決定的な意味をもっている。これに先行する14世紀のサキャ派政権とチュンビ渓谷周辺の地域勢力「ドゥン」との抗争において、ギャ氏が調停者として重要な役割を果たしたことが知られており、ドゥク派政権成立以前のロモン各地の世俗的権威(小王)をこのドゥンに結び付ける指摘も早くからされている。
このように、ティサンヤプラは中国史、チベット史、南詔史はもちろん、それを内包する東アジア史全体の中でも重要な人物であり、同時にチベット仏教史上からも注目すべき人物である。しかしながら先行研究において彼にフォーカスした総合的な業績は見当たらない。その理由は3つあると思われる。
ひとつには、研究領域の問題である。同時代史料は彼がラサを中心としたチベット中央、雲南周辺、河西回廊のそれぞれで重要な役割を果たしたことを示している。このことは広大な版図を示した吐蕃王国の歴史からある意味当然のことだが、彼のように1人の人間がその3地域で実際に活動した例は他に知られていない。さらに、インドからの仏教再輸入が契機となった後伝期以降の仏教史では南アジア史、中央アジア史の問題が密接にからんでくる。つまり、先行研究のほとんどはこの5つの地域の地域史のうちいずれかの文脈の上でしかティサンヤプラを評価してこなかった。
ふたつめは、彼の歴史上の意味が聖俗両面に係わっているという点である。吐蕃・唐の間で続いた百年以上にわたる抗争は東アジア史上の大事件であるため、先行研究は多く、『唐書』などの伝世漢史料、敦煌文書に代表される考古学資料に大きな蓄積がある。しかし、そのほとんどは社会経済面からの検討であった。一方、伝統的な仏教史学・チベット学は思想史の観点からの研究が中心であり、社会経済学的視点に欠ける。ティサンヤプラは仏教史上重要な人物とされる一方、僧侶ではないため、祖師伝が重要、というよりもそれが歴史の本体である仏教史学の方法論では研究の対象となりにくい。
みっつめは、ここで問題になっている地域は、地理的理解そのものが世界的に見ても遅れているという点である。ラサから河西回廊までティサンヤプラがどのように移動したかについては、直接の史料がなくとも関連分野の研究者であれば推定が可能だろうが、ラサ~雲南間、雲南~河西回廊間、ラサ~天竺間となると、それさえ難しいのではないか。
筆者はいままでブータンを中心とした東ヒマラヤ地域の文化史を、街道・交易の歴史的展開を軸に検討してきた。本研究はその延長として、ティサンヤプラ関連の資料・先行研究の成果を同時代の地理的状況や自然環境、交通・貿易史と厳密に付き合わせることで、モン地域における仏教(チベット)文化の定着の原点を模索するための実証的な基盤を提供することである。
【発表要旨⑥】「ブータンにおける歌の文化 ―ツァンモとその周辺―」○伊野 義博(新潟大学)、○黒田 清子(金城学院大学)、○権藤 敦子(広島大学)
ブータンには、ツァンモTsangmoと呼ばれるあそび歌が各地に存在する。古くは、中尾佐助(1959)によって、ブータンにおける「恋のかけ合わせ」として歌垣との関係で日本に紹介された。その後、糸永正之(1986)の研究や、藤井知昭(1991)、Sonam Kinga(2001)、Dorji Penjore(2018)などの論考が見られる。人々の生活の中で行われてきたツァンモはしかし、現代ではその習慣が失われつつある。
ツァンモは一定の音節の組合せをもった4行の詩文を一定の旋律を用い、時に即興も交えて歌いながら、相手との相性を判断したり、歌で対決したり、あるいは予言や占いをする歌唱を伴った行為と思われる。しかしながらその実態は、必ずしも明らかになっていない。
発表者等は、ここ10年ほど、ツァンモを追いかけ、パロ、プナカ、トンサ、メラ、ダガナ、ラヤの調査を継続してきた。また、2015年にはワンデュポダンにあるサムテガン・セントラル・スクールで行われた学校行事ツァンモ大会に参加、2016年には、ティンプーにあるケルキ高等学校での学校対抗ツァンモ大会の企画にも参加し、学校におけるツァンモについても調査を行った。加えて、クズFMで放送されている「ツァンモの時間」に関わる取材を行うとともに、RAPA(Royal Academy of Performing Arts)にも取材を行ってきた。この動きは現在パロ教育カレッジと連携した音楽カリキュラム開発へとつながっている。
これらの調査をもとに、本発表では、まず、①ツァンモとはどのような行為であるのか(遊び、歌詞、音楽、背景、現状)を整理し、②歌詞の比較考察と聞き取りにより得られた歴史実践を報告、そして、③地域社会、言語、学校、メディアの中で見られたツァンモの姿を紹介し、ブータンの生活文化における歌のありようを明らかにしていきたい。
ブータンの音楽として旅行者に広く知られ、また、ブータンの人々が伝統的な芸能と考えているのはツェチュに見られる宗教音楽や仮面舞踊、ジュンドラやヴェードラで踊られるシャプタであろう。そのような中で、ツァンモはブータンの人々自身にも伝統的な文化としてこれまでさほど認識されてきていなかった。しかし、歴史的・社会的背景のもとで人々の生活の中で継承されたツァンモをたどることにより、ブータンの民俗文化が見えてくる。さらに、掛け合い唄としてのツァンモの音楽構造は、国境を超えて共有される特質と、ブータンの文化固有の部分と、ブータンの中でも歴史的・地理的条件や言語の違いによってローカライズされた部分とが、複雑に絡まりあって形成されている。本発表では、これまでの調査を報告することで、ブータンに知見の深い学会員の方々から多方面からご意見をいただき、今後の課題への取り組みを展開していきたい。
【引用文献】
- 中尾佐助: 秘境ブータン. 毎日新聞社, 東京, 1959.
- 糸永正之: ブータンの「相聞歌」―交互唱による対面伝達行動の予備的研究―. 学習院大学東洋文化研究所研究報告21: 43-127, 1986.
- 藤井知昭:ヒマラヤの楽師たち. 音楽之友社, 東京, 1991.
- Sonam Kinga: The Attributes and Values of Folk and Popular Songs. Journal of Bhutan Studies 3.1: 132-170, 2001.
- Dorji Penjore: A Note on Tsangmo, a Bhutanese Quatrain. Journal of Bhutan Studies 38: 65-84, 2018.
【発表要旨⑦】「ブータン関連史資料の収集調査 ―19~20世紀前半にブータンを訪問したイギリス人が残した書簡・報告書を中心に―」平山 雄大(早稲田大学)
9世紀後半から20世紀前半にかけて、特にドゥアール戦争以降ブータン王国が成立し国家形成がなされる過程においてブータンとイギリスの関係は非常に強く、地理的・戦略的な観点からもイギリスはブータンの動向を注視してきた。そのため当時のブータンに関わった、もしくは実際に同国を訪問したイギリス人による記録や報告は数多く残されており、例えば隣国シッキムに駐在していたジョン・クロード・ホワイト(John Claude White)以降の歴代政務官(political officer)が記した年次報告書は、発表者の遂行するブータン近代学校教育史研究においても有用な資料となっている。
例えば、1910年代にカリンポンとハにおいて勉学を開始した「ハの学校」のブータン人男子たち(第1期生)のその後を追うと、1923年5月18日付の年次報告書において初めて大学入学資格試験の受験者が確認され、1923年には4人、1924年には8人が受験したことが読み取れる。そして1926年5月17日付の年次報告書おいて「1915年頃にカリンポンに送られた46人のうち合計11人が合格した」との報告がなされており、同試験の合格者はデラドゥンの森林学校、コルカタ近郊シブプールのベンガル工科カレッジ、同じくコルカタのベンガル獣医カレッジ、キャンベル医学学校、バーガルプルの教員養成校といったインド北部・東部に位置する高等教育機関へ進学し、それぞれ学業を続けていたことが以降の報告書から確認できる。さらに大学入学資格試験に合格していない者も、シロンのグルカ連隊に所属し軍事訓練を受けたり、パラミュでラック養殖の実用訓練を受けたり、カリンポンの病院で調合師となる訓練を受けたりしていたことが同時に読み取れる。
これらの歴代政務官の年次報告書はツェリン・タシ(Tshering Tashi)によって編集された後、2015年に15 Gun Salutes: British Reports on Bhutan from 1905-1945というタイトルで出版され広く参照されるようになったが、同報告書をはじめ、ロンドンの大英図書館(British Library)には数多くのブータン関連史資料が保管されている。当時のブータンの政治・社会状況に関しては先行研究においても統一された見解が見られず不明瞭な点が多く、同国の諸相に関する研究の深化のためには、先行研究で取り上げられることの少なかった、もしくはまったく取り上げられてこなかった関連史資料の確認が必須であると判断される。
そこで本発表においては、発表者が収集調査を行った大英図書館に眠るブータン関連史資料を概観すると同時に可能な限り類型化し、特に19~20世紀前半にブータンを訪問したイギリス人が残した書簡・報告書等の資料的価値を再考する。発表の中では、ホワイトが撮影した写真(のキャプション)、フランク・ラドロー(Frank Ludlow)が1930年代にブータン国内各地で撮影した写真やチャールズ・ジョン・モリス(Charles John Morris)が記した南部を中心とした地図、フレデリック・ウィリアムソン(Frederick Williamson)からフレデリック・マーシュマン・ベイリー(Frederick Marshman Bailey)に宛てたシャブドゥンの国外亡命の可能性を示唆する書簡等、また少々時代を遡りアシュリー・イデン(Ashley Eden)一行が残した地図・記録・単語帳等を取り上げる予定である。
【参考文献】平山雄大(2016)「近代教育黎明期のブータンにおける学校教育・留学事情に関する基礎的研究―シッキム政務官報告書の分析を中心に―」早稲田大学教育総合研究所『早稲田教育評論』第30巻第1号、169-188頁。