日本におけるブータン研究の発展・普及を目指して
Japan Society for Bhutan Studies: JSBS
NEW!第9回大会
2025年10月25日(土)、オンラインにて、日本ブータン学会第9回大会を開催いたしました。
概要
1. 大会日程
2025年10月25日(土) 13:00~16:40
2. 開催方法
Zoomによるリアルタイム配信
3. 大会プログラム
13:00~13:10 開会挨拶
13:10~13:50 発表(1)
「西オーストラリア州パースにおけるブータン料理店の展開と起業戦略」
菊川 翔太(京都大学大学院)
13:50~14:00 休憩
14:00~14:40 発表(2)
「農村と都市をつなぐ生計戦略
―シンカル住民の移住から見るトランスローカル・コミュニティ経済―」
真崎 克彦(甲南大学)
レグデン・ワンチュク(Bhutan Healthy Tea)
14:40~14:50 休憩
14:50~15:30 発表(3)
「ブータンをフィールドとした体験的学習プログラムの運営
―お茶の水女子大学「国際共生社会論実習」を事例に―」
平山 雄大(お茶の水女子大学)
15:30~15:40 休憩
15:40~16:20 発表(4)
「ブータンにおける「元サキャ派僧院」の現状と教育格差
―国家と宗教の関係からの比較教育学的考察―」
佐藤 美奈子(京都大学/国立民族学博物館)
16:20~16:40 諸連絡
4. 大会参加者
40名
発表要旨
【発表要旨(1)】「西オーストラリア州パースにおけるブータン料理店の展開と起業戦略」菊川 翔太(京都大学大学院)
本研究の対象であるブータン料理店は、世界各地の在外ブータン人コミュニティに点在しており、オーストラリア、アメリカ合衆国、日本、タイ、インド、ネパール、クウェートなどに合計30店舗以上確認される。そのなかでも、2022年以降、留学・出稼ぎ・移住を通じてブータン人が急増している西オーストラリア州パースには、2025年8月末時点で21店舗が立地している。
本発表では、まずブータン料理の形成史を先行研究から整理したうえで、西オーストラリア州パースにおいてブータン料理店の起業家がどのような戦略のもとで起業しているのかを明らかにする。発表者は、2024年2月~3月、2025年2月~3月および8月~9月にかけてパース市内の全21店舗を訪問し、店内での参与観察を行うとともに、複数店舗において経営者や従業員への聞き取り調査を実施した。
文献調査の結果、ブータン料理は、中南米から伝わった唐辛子、チベット由来のスジャやモモ、インドやネパールのダルやスパイスなど、国外からもたらされた食材と、ブータン国内の地理的条件や歴史的背景のもとで育まれた食文化が融合することで形成されてきたことがわかる。さらに1960年代以降の近代化開発、ブータン国内の農村都市移動、グローバル化する社会の中での国際移動を通じて、ブータン料理は国境を越えて展開してきた。
パースでの現地調査からは主に以下の3点が明らかになった。第一に、ブータン料理店の起業家は、多くが2010年代に留学生またはその配偶者として来豪し、その後、卒業生ビザや就労ビザを経て永住権を取得し、起業に至っていた。2017年に初のブータン料理店が開業した後、2022年以降に店舗数が急増し、2025年1月~8月の間に少なくとも5店舗が新規開業している。第二に、西オーストラリア州パースにおけるブータン料理店は、ブータン料理の真正性を前面に打ち出すブータン料理専門店だけではなく、インド・ネパール・チベット料理との融合や欧米系のカフェとの併設などの「借り傘戦略(山下, 2016)」をとり、より幅広い客層を取り込んでいた。第三に、ブータン料理店は食事の場を超え、宗教儀礼、スポーツ活動、情報交換の拠点としても機能し、ブータン人同士が集まり、つながりを維持する場となっていた。
本研究の課題、今後の展望、参考文献等については発表時に報告する。
【発表要旨(2)】「農村と都市をつなぐ生計戦略 ―シンカル住民の移住から見るトランスローカル・コミュニティ経済―」真崎 克彦(甲南大学)、レグデン・ワンチュク(Bhutan Healthy Tea)
ブータンでは農村から都市への移住が進む中、地域間格差の拡大を抑えつつ均衡ある開発を実現するための政策対応が急務となっている。本発表では、農村―都市間移住が持つ潜在力に着目し、移住者の出身地における生計向上を可能にする環境整備をいかに実現しつつ、同時に社会的断片化や文化的喪失といった負の影響を最小限に抑えるか、という課題を取り上げる。
事例として、ブムタン県ウラ郡シンカルを拠点とするハーブティー製造企業「ブータン・ヘルシーティー(Bhutan Healthy Tea、以下BHT)」を分析対象とする。BHTは、シンカル出身で後にブムタン県のチャムカルへ移住した起業家によって2021年3月に創業された。多くの企業が農村から原料のみを調達するのに対し、BHTは製品のパッケージングや出荷までを村内で完結させる点に特徴がある。
品質管理や市場アクセスなどの課題はあるものの、BHTは創業当初から収益を上げており、製造・梱包部門で3名の住民を直接雇用するとともに、村内40世帯の約半数をハーブ採取に関与させている。これにより住民の収入向上や経済的困難の緩和に寄与し、世帯構成員の経済的自立も促している。また、加工やパッケージングといった高付加価値活動をより利便性の高い町で行うことが一般的な商慣行の中で、BHTはこうした価値創出を農村内部に取り込み、利益を村全体にできるだけ公平に還元することを重視している。その一環として、経済的に困難を抱える世帯にもハーブ採取への参加機会を提供しており、今後はさらに多くの住民を巻き込む計画を進めている。加えて、創業者は利益の一部を村全体の福利に資するさまざまな活動に充てている。
こうしたBHTの取り組みは、商業的成功と地域社会のウェルビーイングを統合する「トランスローカル・コミュニティ経済」の推進として位置づけられる。この経済モデルを支える重要な基盤がトランスローカルな社会関係資本(social capital)である。すなわち、故郷を共有する人々の間で育まれた信頼と連帯である。具体的には、2006年に設立された自治組織 Shingkhar Dechenling Phendey Tshogpa(SDPT) が果たした役割が大きい。SDPTはシンカル出身で現在はティンプーをはじめとする他所に居住する同郷者によって設立され、仏教行事の復興や寺院建物の修復などを支援してきた。村人たちもこれらの活動に積極的に協力しており、BHTの創業者自身もSDPTの取り組みに深く関与している。
政策的含意として、政府は出身地とのつながりを保持する移住者を積極的に巻き込み、彼らの故郷における生計向上を促す施策を推進し得ることが示唆される。例えば、政府が「ゲレフ・マインドフルネス・シティ」プロジェクトにおいて国外在住ディアスポラの郷土意識を活用する計画を進めているように、国内で進行する農村―都市間移住の加速に伴う課題と機会に対しても、同様のアプローチを応用する可能性がある。
本発表では、2025年4月10日に王立ティンプーカレッジで開催された「National Conference: Migration, Climate Change and Societal Change in Bhutan」での報告を日本語に翻訳した内容を報告する。
【発表要旨(3)】「ブータンをフィールドとした体験的学習プログラムの運営 ―お茶の水女子大学「国際共生社会論実習」を事例に―」平山 雄大(お茶の水女子大学)
本発表は、ブータンをフィールドとした体験的学習プログラムの事例のひとつとしてお茶の水女子大学の全学共通科目「国際共生社会論実習」(2022年度~)を取り上げ、その運営方法及び内容をまとめるとともに、ブータンという特色あるフィールドを学習にどう活かせるか、ブータンから何を学ぶことができるのかを考察する。
体験的学習プログラムは「中等教育機関、高等教育機関、旅行会社、NGO等が海外で実施する1~4週間程度のグループ活動(及びその事前・事後に行われる活動)で、訪問国の人々との双方向的な交流及び参加者自らの参加、体験、振り返り等がその要素となっているプログラム」(平山, 2021)と定義することができ、「海外実習」、「海外研修」、「フィールドワーク」、「サービスラーニング」、「ワークキャンプ」、「スタディツアー」等の名称か付せられ、メインとなる渡航のみではなく事前・事後学習等その前後にも活動があること、参加者間で学びの共有や振り返りがなされることが特徴として挙げられる。
日本からブータンへ向かう体験的学習プログラムは、ほとんどが21世紀に入ってから開始されたものである。その実施件数は、2000年代後半には年間2~4件程度だったものが2010年代後半には年間12~15件程度に増加していた(平山, 2021)が、それらは新型コロナウイルス感染症拡大の影響で2019年度を最後に中断を余儀なくされた。2022年度以降いくつかのプログラムが行われているが、実施機関同士の横の連携、例えば運営方法の共有や意見交換・情報交換等はほとんどなされていない。
お茶の水女子大学の「国際共生社会論実習」は、2011年度からグローバル協力センターが展開していた正課外の開発途上国スタディツアーを、渡航前・渡航後の学習を充実させ正課に組み入れたものである。「国際共生社会論実習」(対象:学部生)・「国際共生社会論フィールド実習」(対象:博士前期課程の大学院生)という科目名で、2単位の通年不定期科目として2013年度より開講している。同科目の2013年度から2019年度までの現地調査のフィールドはバングラデシュ、ベトナム、ネパール、カンボジアの4ヵ国であり、7年間に学部生121名、大学院生6名の合計127名が履修した。同科目は「専攻・学年を問わず開発途上国の社会・経済・政治にかかわる問題や国際協力に関心を有する学生(学部・大学院博士前期課程)が、途上国における研究・実績を有する教員の指導の下で事前学習と現地調査(約1週間)を実施し、その成果をレポートにまとめて学内で発表することにより、文献を通じた学習とは異なる密度の濃い学習を行う」ことを目的とし、教員やアカデミック・アシスタントが2名体制で現地調査に同行(引率)するかたちを採ってきた。2020~2021年度は休講していたが、全体の学びの流れや到達目標を微修正したうえで2022年度より再開され、現在はブータンとカンボジアが現地調査のフィールドとなっている。
発表では、主に履修生各自の研究課題や振り返り時の感想を通してブータンにおける学びを考察するとともに、比較の視点や英語によるコミュニケーション実践の可能性に関して触れたい。
【参考文献】
平山雄大(2021)「ブータンを舞台にした体験的学習プログラムの開発・実施」早稲田大学教育総合研究所『早稲田教育評論』第35巻第1号、113-134頁。
【発表要旨(4)】「ブータンにおける「元サキャ派僧院」の現状と教育格差―国家と宗教の関係からの比較教育学的考察―」佐藤 美奈子(京都大学/国立民族学博物館)
本研究は、現代ブータンにおけるチベット仏教サキャ派由来僧院の現状を、少年修行僧の教育機会に焦点をあてて分析するものである。2023〜2024年にかけて、ブータン全土の5か所のサキャ派由来僧院を訪問し、インタビュー調査を行った。本発表では、学齢期の子どもを受け入れる3か所—ティンプー郊外チシン僧院、プナカ農村部ネパ・ラカン、チュカ山岳部パガ・ゴンパ—を対象とする。
ブータン仏教の歴史的背景として、8世紀にニンマ派の祖パドマサンバヴァにより伝えられ、13世紀にカギュ派の一分派ドゥク派が導入された。17世紀にはシャブドゥン・ンガワン・ナムゲルが中央僧院の原型となる仏教コミュニティ(サンガ)を組織し、国家基盤を形成した。2008年憲法第3条では仏教を「精神的遺産」と位置付け、中央僧院とその傘下僧院は国家財政で保護される。一方、他宗派は制度外であり、国家支援は限定的である。サキャ派は婚姻関係等を通じてドゥク派カギュ派と結びつき、多くが「元サキャ派僧院」として存続する。
ブータンの教育制度は、普通教育と僧院教育の二元体制からなる。普通教育は教育省管轄で国家資格枠組(BQF)に基づき整備される。僧院教育のうち中央僧院管轄のドゥク派カギュ派施設は「公教育」として位置付けられるが、他宗派の僧院教育は「private」とされ、各僧院に委任される。義務教育制度がないため、僧院に引き取られた子どもは普通教育へのアクセスが保証されない。
調査の結果、中央僧院との関係性が僧院への財政支援に影響し、子どもたちの教育機会に直結していることが明らかとなった。チシン僧院では中央僧院との強い結びつきにより、財政支援と教育省派遣教員による普通教育が提供される。ネパ・ラカンでは、中央僧院がラマ1人の生活費のみを保障し、子どもは地域小学校に通い、生活費は村の寄付に依存する。パガ・ゴンパでは中央僧院の支援がなく、子どもたちの生活・教育は村のボランティアに依存しており、国連子どもの権利条約が求める水準を下回る。結果として、普通教育と僧院教育の格差に加え、宗派格差による二重の教育格差が生じている。表1に示すように、僧院教育における普通教育導入は財政基盤により4類型に分けられる(Sato, 2025)。国家の特定宗派保護政策が教育格差を再生産しており、ドゥク派カギュ派僧院では教育が制度的に保障される一方、他宗派では教育機会が僧院や地域社会に依存する。スリランカではピリワナ教育を含め教育省が一元管理し、学齢期の子どもはどこで教育を受けても共通レベルが保証され、大学進学も可能である。タイやミャンマーでは、僧院が正規教育を担うことで教育格差を是正してきた。
僧院は、貧困や親の遺棄などにより社会から零れ落ちそうな子どもを受け入れるセーフティネットとして機能する。しかし同時に、子どもたちから普通教育、特に現代ブータン社会に不可欠な英語教育の機会を奪い、将来の社会参加や職業選択に制約を課すジレンマを生んでいる。元サキャ派僧院での教育格差の相違は、国家による特定宗派保護が教育機会と社会的流動性に与える影響を示すものであり、現代ブータンにおける国家・宗教・教育の関係を再考する視座を提供する。
表1 普通教育導入の4類型(佐藤 2025)
