日本におけるブータン研究の発展・普及を目指して
Japan Society for Bhutan Studies: JSBS

「日本ブータン学会第1回大会」開催のお知らせ

このたび、ブータンを対象とする学術的研究の発展及び普及を図ることを主目的とし、日本ブータン学会(Japan Society for Bhutan Studies: JSBS)第1回大会を開催いたします。

当学会は、立場や専門分野を限定せず、多くの人に開かれた学際的な相互向上の場を目指しています。各人が普段親しんでいるブータンへのアプローチとは異なる視点や分析方法を知り、互いの差異を認識したうえで、忌憚のない討議をしたいと考えております。

万障お繰り合わせのうえ、ぜひご参加ください。

概要

1. 大会日程

2017年5月21日(日) 10:00~17:15 (開場9:30)

2. 大会会場

早稲田大学(早稲田キャンパス) 3号館704教室

〒169-8050 東京都新宿区西早稲田1-6-1
http://www.waseda.jp/top/access/waseda-campus

  • JR山手線・西武新宿線 高田馬場駅 徒歩20分
    (高田馬場駅より都営バス(系統:学02) 終点早大正門下車)
  • 東京メトロ東西線 早稲田駅 徒歩5分
  • 都電荒川線 早稲田駅 徒歩5分

3. 大会プログラム

10:00~10:30  発表①
         「ブータンの情報社会
         ―新しい情報社会論構築に向けて―」
         藤原 整(早稲田大学)

10:30~11:00  発表②
         「ブータン仏教とそのルーツ
         ―ドゥク派開祖ツァンパギャレー(1161-1211)を中心に―」
         熊谷 誠慈(京都大学)

11:00~11:30  発表③
         「オレカ語の言語的特徴について」
         西田 文信(東北大学)

11:30~12:30  全体討議

14:00~14:30  発表④
         「日本で暮らすブータン人技能実習生の生活に関する人類学的研究」
         栗田 陽子(東北大学大学院)

14:30~15:00  発表⑤
         「20世紀前半のブータン人と近代教育
         ―シッキム政務官報告書の分析を中心に―」
         平山 雄大(早稲田大学)

15:00~15:30  発表⑥
         「「死の谷プナカ」の謎
         ―土地行政の観点から見るブータンの政治―」
         月原 敏博(福井大学)

15:30~16:30  全体討議

16:45~17:15  総会

4. 大会参加費

1,000円 

5. 懇親会

17:30~20:30(予定) 参加費 4,000円
欧州料理キッチン「Bistro Atton」

〒169-0051 東京都新宿区西早稲田1-22-2
http://atton-t.jimdo.com/

6. 参加申し込み

参加を希望されるかたは、「1. 氏名、2. 所属、3. 連絡先(電話番号及びメールアドレス)、4. 懇親会参加の有無」をメール本文に記載し、日本ブータン学会第1回大会準備委員会(bhutanstudies*gmail.com(*→@))までお申し込みください。

当日参加も可能ですが、人数把握及び資料準備の関係上、事前にお申し込みいただけますと幸いです。また、お申し込み後の研究会及び懇親会のキャンセルは事前にご連絡ください。当日キャンセルはご遠慮くださいますよう、お願い申し上げます。

7. お問い合わせ先

日本ブータン学会第1回大会準備員会 bhutanstudies*gmail.com(*→@)
(担当:須藤 伸、平山 雄大)

発表要旨

【発表要旨①】「ブータンの情報社会―新しい情報社会論構築に向けて―」藤原 整(早稲田大学)

本報告は、報告者の博士学位論文に基づき、ヒマラヤの王国ブータンに着目し、その情報社会像を描き出したものである。まず、ブータンが、二一世紀に入ってから民主主義国家となったこと、あるいは、資本主義経済のもとでの工業化が未だ実現していないこと、そして、それらに先んじて情報化と呼ばれる現象が起きていることに着眼する。これまで、このような近代の超越が何をもたらすのか、十分な関心が払われてきたとは言い難い。ブータンのような存在は、グローバル社会には非常に軽微な影響しか与えない特異な事例として等閑視されてきたと言える。一方、情報化社会論と呼ばれる、1960年代に日本で起こった、一種の未来学理論に端を発する理論群がある。以後、情報通信技術が社会に何らかのインパクトを与えることを論じた研究は枚挙に遑がないが、それらは概して、工業化された社会における情報化を取り扱ってきた。ここで問題となるのは、ブータンが、工業社会を経ずに情報化、つまり情報通信技術の普及が進んでいる、という事実である。

以上の問題意識から、本論の目的として次の二つを設定した。一つは、「情報化」というグローバルな現象を切り口として、ブータンという地域社会を学際的に論じることであり、もう一つは、ブータンというローカルな地域で起きている現象から、より汎用的な、新しい情報社会を説明することである。

本論を構成しているのは、ブータンにおいて実施した、過去7年、計80日間におよぶフィールド調査結果である。ブータン社会はその基底の部分において、自然環境によって大きな制約を受け、同時に恩恵も受けてきた。さらに、当然のことながら、同じブータン国内においても、地域ごとにその自然環境や社会環境は大きく異なっておる。そのような地域ごとの差異が、情報通信技術の普及過程や、それぞれの地域におけるコミュニケーションの在り方に何らかの影響を与えていることを示していく。加えて、政治、経済、そして文化、それぞれの社会的な枠組みごとに、特徴的なコミュニケーションの在り様が表出している事例を取り上げ、その全体像が少しでも伝えられるように可能な限り詳細なフィールドノートを描き出していく。

ブータンのフィールド調査から見えてきたのは、逆説的に、これまでの情報社会論で語られてきたような高度な〈技術〉によって構成された社会が如何に自然から切り離され、グローバル化の波が如何に世界中のあらゆる都市の同質化をもたらしてきたか、という証明であった。翻って、ブータンという〈場所〉では、自然環境が、社会環境の根底を成していることを否が応でも痛感する。これまでの情報社会論が、〈技術〉によって侵食され、存在感を喪失した〈場所〉を描いてきたのに対し、ブータンから描き出す新しい情報社会論は、その〈場所〉にこそ、主眼を置かなければならない。

ブータンの、自然環境という強固な基盤によって支えられている〈場所〉は、世界中から絶えず流入してくる新しい〈技術〉を受け止めて、それらを選り分ける作用を果たしている。一方で、新しい〈技術〉がもたらされ、それを利用する者たちが、〈場所〉に新たな経験を埋め込んでいくことで、〈場所〉もまた、少しずつ変わっていく。そこでは、ブータンという社会が、〈技術〉と〈場所〉から成る環境に対して適応し、また、〈技術〉と〈場所〉が、それぞれ互いに適応しようとしているような所作を見出すことができる。

このような、社会と〈技術〉と〈場所〉が相互に関係し合う〈情報生態系〉の姿こそが、ブータンの情報社会の現在形そのものの姿である。それは、かつてのような進歩史観にもとづく情報社会像ではなく、純粋な意味での、進化史観にもとづいている。そして、その進化史観に紐づけられた視座において、再び情報社会という問題に向き合うことで、世界各地に枝分かれして現出している、それぞれの情報社会へと至ることができるのである。

【発表要旨②】「ブータン仏教とそのルーツ―ドゥク派開祖ツァンパギャレー(1161-1211)を中心に―」熊谷 誠慈(京都大学)

ブータン王国は、国民総幸福量(Gross National Happiness)政策により世界の注目を集めるに至ったが、同王国の政策・文化が仏教思想に根ざしているということを忘れてはならない。すなわち、仏教理解なくしてブータンを本質的に理解することは極めて困難といえよう。

すでにマイケル・アリスや今枝由郎、最近ではカルマ・プンツォといったチベット・ブータン学者たちがブータン史の研究を進展させたことで、ブータン仏教史についても概観することが可能になってきた。しかし、史実の細部については未だ未解決の問題が多く、思想に至ってはほぼ手つかずの状態である。ブータン(ドゥクユル、すなわちドゥク派の国)を建国したシャプドゥン・ガワンナムゲル(Zhabs drung Ngag dbang rnam rgyal, 1594-1651)については、研究が多くなされてきたが、シャプドゥン以前のドゥク派については未解明の部分が多く、その解明が望まれる。

本発表では、ドゥク派の歴史を概観するとともに、開祖でありシャプドゥンの前世と見做されるツァンパギャレー・イェシェードルジェ(gTsang pa rgya ras Ye shes rdo rje, 1161-1211)という人物の生涯、思想、および人物的特性について概観したい。

ツァンパギャレーの生涯については、アリス、今枝、プンツォ、マーティン、ミラーなどが簡単に紹介しており、ツァンパギャレーという人物の生涯の概略を大まかに把握することは可能である。しかし、これらの研究は限られた伝記しか参照しておらず、複数存在する伝記や歴史書についての総合的検証がなされていない。本発表で言及するように、逸話の内容や事績の年月などの情報は、伝記や歴史書ごとに異なる場合も多いが、先行研究においてはそれらについての言及、分析がなされていない。ツァンパギャレーという人物を、より細かく、多角的に理解し直すには、参照可能な全ての伝記と歴史書の情報を収集・整理し、総合的に検証する必要がある。

本発表では、参照可能なツァンパギャレーの伝記と、歴史書におけるツァンパギャレーに関する記述を精査し、ツァンパギャレーという人物を歴史的観点から再検証することを目的とする。その際、ツァンパギャレー自身の著作についても適宜参照し、思想的側面からも再検証する。

具体的には、以下の2つの視点からツァンパギャレーに注目する。

①ツァンパギャレーの歴史的位置づけ:前世や化身、師弟、法統の系譜に着目し、時代的前後関係から、ツァンパギャレーを歴史的に位置づける。
②ツァンパギャレーの生涯:伝記や歴史書、著作集を参照し、ツァンパギャレーの人物像とその特徴を分析する。

【発表要旨③】「オレカ語の言語的特徴について」西田 文信(東北大学)

Linguistic Survey of Bhutan(van Driem 1991)の出版以前はブータン王国の諸言語についてはまとまった記述が皆無であった。現在ブータン王国では確認できる限り以下の言語が分布している:

  • Central Bodish: Dzongkha, Cho-ca-nga-ca-kha, Lakha, Brokpa, Tibetan, Brokkat
  • East Bodish: Kheng, Bumthang, Dzala, Kurtöp, Mangdebi-kha, Chali, Black Mountain (’Olekha), Dakpa
  • Other Tibeto-Burman Languages: Tshangla, Lhokpu, Gongduk, Lepcha
  • Indo-Aryan Language: Nepali, English

本発表では、ブータン王国ワンディポジャン(Wangdue Phodrang)県及びトンサ(Trongsa)県に分布しているオレカ語(’Olekha, ’Olakha, Black Mountain Mönpaとも称される)についての初歩的調査の結果音声・音韻・形態中心に報告する。当該言語は外国人研究者によりBlack Mountain Mönpaと称されてきた。而るに発表者の調査により、この言語の母語話者は自身の言語を’Olekha乃至は’Olakhaと呼んでいることが確認された。本発表で考察するのは、この言語の母語話者の文化的背景及び音韻体系である。筆者は 2016年12月から2017年1月にかけて、ブータン王国トンサ県において当該言語の基礎語彙及び文法調査を行った。本稿はその調査結果の報告として音声・音韻及び中核語彙の記述・分析を目的とするものである。短期間の調査で語数も600と限られているため、試論に過ぎないことをお断りしておく。

オレカ語は膠着語で SOVの語順を有する。しかしながら、述語が文末に立つという厳格な文法的制約に違反しない限り、その他の構成要素の順序はかなり自由である。形態統語論に関しては、概ねチベット語諸方言(中央方言・アムド方言・カム方言)とパラレルであるが、動詞語幹の中にはチベット語とは明らかに系統を異にするものが存在し、また述語形式(助動詞)や助詞の中にはチベット系諸語の最も古い形式と同定できるものもあり、また、epistemic verbal categoryには非常に興味深い現象を有する言語であるので、この分野では非常に貴重なデータを提供してくれる言語である。

ブータン王国には、未だ学術的研究が十分に進んでいない諸言語が数多く存在する。ブータン諸語の大部分はシナ=チベット語族・チベット=ビルマ語派に属する。ブータン王国中部で話されている所謂ブムタン・グループの諸言語や東部で話されている諸言語はそれぞれ音韻上及び形態上の共通特徴を有しているが、シナ=チベット語族の最古層を反映していると考えられ、民族移動の観点からしてもブータン王国の諸言語の学術的価値は極めて高い。十分な情報を書いた(あるいは皆無の)言語の殆どがいまや急速に消滅に向かっており、生きた言語を有効に研究できる残余期間は限られている。遅きに失することなく、一刻の猶予なく調査・研究の取り組みを始める必要と責務が言語学者にはあると強く考える。Krauss(1992)は世界諸語を、1)「瀕死の状態にあるmoribund」言語:子供たちがすでに学ばなくなっている言語、2)「危機に瀕したendangered」言語:今世紀中に子供たちが学ばなくなる可能性のある言語、3)「安泰なsafe」言語、の3カテゴリーに分類したが、当該言語は1)の「瀕死の状態にある言語」であると言い得る。George van Driem (私信)によれば, この言語の母語話者数はブータン政府公式見解では1000人とはなっているが実際は極度に消滅の危機に瀕した言語であるとのことである。

時間が許せば、オレカ語の系統関係についても触れる予定である。

【発表要旨④】「日本で暮らすブータン人技能実習生の生活に関する人類学的研究」栗田 陽子(東北大学大学院)

本発表の目的は、日本で暮らすブータン人技能実習生を対象として、人類学的な調査をもとに、彼らの生活の実態を明らかにすることである。技能実習生として日本で生活するのは、どのようなことなのだろうか。また、ブータン人の数が少ない日本において、彼らは何を頼りにして暮らしているのだろうか。

日本には外国人移民はいない、という考えは根強い(伊豫谷2013: 27)。実際、日本政府の見解によれば日本には移民は存在しておらず、外国人の存在は可視化されてこなかった(伊豫谷2013: 27)。しかし、現在、日本国内には230万人以上の外国人が暮らしている(法務省 2016)。外国人居住民のうち、約21万人は「技能実習生」と呼ばれる人々である。技能実習制度は1993年に始まったもので、発展途上国の若者を日本に受け入れ、企業において技術移転を図るという目的のもとで行われてきた。技能実習生の主な送り出し国となってきたのは中国、ベトナム、フィリピンなどであった。ブータンから初めて技能実習生が来日したのは、2015年10月である。

ブータン人の若者が技能実習生として来日するに至った背景には、ブータンの近代化の影響がある。ブータン政府は、1961年から5か年計画を通して開発政策を進めてきた。この計画はブータンの政治経済的な発展を推し進める要因となった。一方、開発政策が引き起こした急激な人口の増加や近代教育の普及は失業率の増加へとつながった。政府は2013年に3万人の若者を海外へ送る計画を発表し、雇用不足の解消を目指してきた(Dawa Gyelmo 2016)。

日本で暮らす1人のブータン人男性は、政府の発表を聞き、ブータン人の若者を日本に招きたいと考えた。彼は国内外における人的なネットワークを活用し、ブータン人の若者を技能実習生として来日させることに成功した。来日後の実習生たちは日本語を学んだ後、道路整備業や自動車整備業、板金業の企業において、現在18名が実習を行っている。

日本で暮らす技能実習生を取り巻く現状には、問題が多く存在する。それは制度の問題と生活上の問題に大別することができる。制度上の問題としては、家族呼び寄せの禁止や転職の禁止などが挙げられる。また、生活上の問題としては日本語の習得の困難さや習慣の違いに対する戸惑いなどを挙げることができる。

日本で暮らすブータン人は他の国の外国人居住者よりも大幅に少なく、技能実習生も同様に少ない。日本におけるブータン人同士のネットワークは相対的に弱いと言える。すなわち、日本において生活を営むことは非常に困難である。そのため、今回のブータン人技能実習事業において、この在日ブータン人男性が果たす役割は大きい。彼は公私にわたって実習生たちをサポートしている。これは他の国の技能実習事業と異なる点であり、大きな特徴でもある。

【参考文献】

  • Dawa Gyelmo, Wangdue (2016) “Cost of Seeking Employment Abroad.” Kuensel, January 14, 2016. Retrieved January 18, 2016 from: .
  • 法務省(2016)「国籍・地域別在留資格(在留目的)別在留外国人」
    より、2016年12月30日取得。
  • 伊豫谷登士翁(2013)「「移民研究」の課題とは何か」伊豫谷登士翁(編)『移動という経験―日本における「移民」研究の課題』pp. 3-25、東京: 有信堂。

【発表要旨⑤】「20世紀前半のブータン人と近代教育―シッキム政務官報告書の分析を中心に―」平山 雄大(早稲田大学)

ブータンでは、一般的には1914年にできた「ハの学校」及び1915年にできた「ブムタンの学校」が国内唯一の近代学校として機能していたとされているが、インドの全面的支援を受けた第1次5ヵ年計画(1961年~)のもとで本格的に近代学校教育の拡充が目指される以前の40~50年の間、ブータンにおいてどのような近代教育が施され、どのように国の近代化に向けた人材が育成されてきたのかを知る術は非常に限られている。当時行われていた教育に関する記述は、数少ない先行研究及びいくつかの教育研究における概論を除くと、基本的にはブータン内外の研究者による歴史研究の中に散見されるに過ぎない。そこで本発表は、ブータンにおける近代教育黎明期と位置づけられる20世紀前半に着目し、同国内に存在していた「ハの学校」及び「ブムタンの学校」の概要を示すと同時に、当時のブータン人のインドへの留学事情の断片を、隣国シッキムに駐在していたイギリス人政務官が書き記した年次報告書等から抽出し、同国の近代化を担う人材がどこでどのように育成されたのかを明らかにすることをその目的とする。

研究の結果、①インドのカリンポンへ留学した少年たちと「ハの学校」の第1期生は同一人物を指していること、②少なくとも最初期には「ハの学校」は年間を通して開校していたわけではなく、留学した少年らがブータンに帰国している夏に学ぶ場としてのみ機能していたこと、③「ブムタンの学校」も季節移動を繰り返していた王家に付き従って場所を変える移動式の学校であったこと等が判明した。

「ハの学校」の第1期生を主としたインドへの留学生に求められたのは、ブータンの近代化を担う知識や技術の獲得であった。1920年代に入ると、彼らの中には中等教育を修了し大学入学資格試験を受験する者が現れてくる。1923年5月18日付の年次報告書にて初めて同試験の受験者が確認され、1923年には4人、1924年には8人が受験した。そして、1926年5月17日付の年次報告書には「1915年頃にカリンポンに送られた46人のうち合計11人が合格した」との報告がなされている。大学入学資格試験の合格者はデヘラードゥーンの森林学校、カルカッタ近郊シブプールのベンガル工科カレッジ、同じくカルカッタのベンガル獣医カレッジ、キャンベル医学学校、バーガルプルの教員養成校といったインド北部・東部に位置する高等教育機関へ進学し、それぞれ森林保護官、鉱山技術者、獣医補佐、外科医補佐、教員になるために学業を続けている。一方で、製革技術者となるためにカンプールの馬具・鞍具工場に派遣された者もいた。また大学入学資格試験に合格していない者も、シロンのグルカ連隊に所属し軍事訓練を受けたり、パラミュでラック養殖の実用訓練を受けたり、カリンポンの病院で調合師となる訓練を受けたりしている。

彼らは1920年代後半から1930年代前半にかけてそれぞれの学業・訓練を終え、順次ブータンへと帰国しているが、特徴的なのは、進学・各種訓練に関わる諸費用のかなりの割合を英領インド政府からの財政負担に依拠している点である。例えば当時、ブータンは英領インドより4万9,629ルピーの財政援助を受け、人材育成に積極的に活用した。1934年4月20日付の年次報告書によると、1933年1月に新たに14人のブータン人少年がシロンに派遣され、グルカ連隊に所属し2年間の軍事訓練を受けている。他にも1930年代後半には、測量の訓練のためにデヘラードゥーンのインド測量局や外科医補佐の訓練のためにカルカッタのキャンベル医学学校に少年が派遣された事例が散見される。しかしながら、1930年代後半から1940年代にかけては留学生の進学もしくは各種訓練事情に関する記述は少なくなり、年次報告書のみからその詳細を知ることは難しい。

【発表要旨⑥】「「死の谷プナカ」の謎―土地行政の観点から見るブータンの政治―」月原 敏博(福井大学)

メインタイトルで「謎」としたテーマは、最終的にはサブタイトルの研究の枠内で解ける問題の一例と考えます。本発表では、この「謎」解きの詳細厳密な証拠調べを終えて報告できるわけではなく、仮説的な解釈の見通し、つまり蓋然性が高そうな答えを示すに留まります。しかしその見方は、ブータン史の理解を深めるのに必ず役立つと考えるので、今回あえてこの「謎」を適当な話題(=問題例)として取り上げることにしました。

中尾佐助が著した『秘境ブータン』には「死の谷プナカ」の記述があります。これは、1958年9月上旬頃の現地観察に基づいて、プナカを「人けのない、古城をいだいた死のような谷であった」とするものです。しかし、11年後の1969年11月中旬にプナカを観察した松尾稔らは、桑原武夫(編)『ブータン横断紀行』のなかで「中尾氏は、そこが死の谷だと記述している。(中略)ところが、私たちの前にあるプナカは決して死の町ではない。いや活気さえ感じる」と正反対の観察を行い、この大きな違い(これこそが本発表が言う「謎」ですが)を「季節的住地の変更の結果おこったくいちがいだと考えられる」と説明しています。ブータンでは牧畜文化に関わる季節的移動の生活様式があって夏の村・冬の村があるが、プナカは冬の村であるため、中尾が訪れた9月上旬は住民がこの地域を離れている時期で不在だったが、松尾らが訪れた11月中旬には季節的に住民が戻っている時期であったと考えられ、したがってまるで正反対のような二つの観察も実のところはまったく矛盾しないものだと「謎」解くのです。たしかにこの説明は適切であり、「謎」の相当程度はこれで説明できているかもしれません。しかし、中尾は、うち捨てられて耕作されなくなった無数の段々畑の跡があることにはっきり言及していることからすると、これではまだ十分完璧な「謎」解きにはなってないはずだと考えます。

発表者の調査研究はまだ十分ではありません。しかし、いくつかの現地観察や聞き取り、そして乏しい文献資料調べから得られた状況証拠からすると、この「謎」は、遅くとも19世紀以来の、土地と人をめぐるブータンの政治史(政治生態史)の文脈に位置付けて捉え直す必要があるとみられます。とくに、第2代国王の時代までに、すでに西ブータンでは労働力不足と耕作放棄地の問題が顕著であったこと(それに対して東ブータン等では相対的には労働力は豊富であり耕作地には不足する傾向にあったこと)、それに併せて重税から逃れるなどのために西ブータンから英領インド側へ「逃散」した少なからぬブータン人人口があったこと、そして、第3代国王の時代においては,東ブータンから西ブータンへの移住(入植移住を含む)が認められただけでなく、現実にプナカなどではシャーチョップの人口が顕著に増加したこと、そしてその近代化過程では、土地(Kidu地)の下賜や市民権の授与に象徴されるような耕作者の植民と土地の再分配・土地開発を並行的に進めていく土地行政が国王を中心とする行政制度として整えられていったという文脈です。

20世紀末に至って大きな問題として噴出したネパール系ブータン人の問題の場合は、国外へ「逃散」した人々の民族・文化こそ違え、類似の発生機構・修復機構を見ることができます。その意味で、土地行政の観点からブータンの土地と人との関係史を整理しなおす調査研究の試みは、例えばネパール系ブータン人の問題をより広く長期的な文脈から捉えなおすことにも役立つものと考えます。